◆トイプードルとリクガメと◆

やっと引っ越して来れたみたい

母の手紙の追記から

母が母の姉に聞いた話

4月18日私が学童疎開に出た後は、両親と姉の三人だけ。空襲でまわりは焼けて屋根の物干し台から見ると、夜空は真っ赤に染まり昼間でも空はうす赤く曇っていてお日様もうっすらとしかみえません。姉は昭和2年生まれ当時18歳。両親と一緒とはいっても、どんなにか心細かったでしょうね。昼でも夜中でも何度も空襲警報サイレンが鳴ると、そのたびに庭に掘った穴、防空壕に隠れます・・私も入ったことがあります。ただ土を掘っただけの穴、爆弾を落されたらどうしようもないです。

5月サイレンと「敵機来襲逃げろ」の合図にリヤカーに荷物を積み厚い防空頭巾を水に濡らし三人で初台坂下に逃げたそうです。逃げる人たちで道はいっぱい、八幡様の近くまで来ると、もう動けずにいて、そこで夜明けを待つしかなかったようです。そのうち敵機の爆音と共に近くに焼夷弾が落ちて火の粉をかぶり、お父さんが払ってくれたとか。

私たち子どもや、田舎に親戚がある人たちは、家族みんなで疎開した人もいます。その後都会に残った人たちは本当に怖い思いをしていたのですね。姉たちは少し明るくなって、警報解除になり家に帰ったら、幸いにも我が家の周辺は焼けずに残っていました。それでも小さい火の粉が入ったのでしょう、畳が何か所か焦げていたそうです。

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母はがっかりするかもしれないけど

私はこの追記の手紙をもらってながらも、こうして自分で入力し直すまで

母の実家が戦災で焼けなかったという意識がなかった

古い振り子時計、障子があって縁側があって、すりガラスに雨戸、裏には手押しポンプの井戸があって、広い玄関、離れの部屋、しゃがんで降りる約束の急な階段・・・・私のアルバムには室内の写真はなかったけれど、記憶にはしっかり焼きついている。

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埼玉の自宅より初台は都会だったけど

私にはその古い家は、充分田舎でした

 

さっき母からLINEがきました

防空壕にはその頃まだ木の足だったミシンも入れて、仏壇は入らなかったので位牌の木の札をリュック入れて母に背負わせた。ご先祖様が守ってくれるからねと。

母は昭和23年に小学校を卒業しているわけですが、その当時戦後の混乱で学校にも名簿がなく、有志で焼け残った古い写真を持ち寄ったり、昔の友達の近所の方に聞いたり自分たちで2年がかりで名簿を作ったそうです。そして卒業後50年、同期会に70人が集まったそうです。また、出会えた友人と疎開先を訪ねて55年ぶりにお礼を言う事ができたそうです。

母は疎開先にも親切にしてもらえ、家族が亡くなることもなく、家も焼けず運がよかったといいます。それでも、話で聞くのと、こうして文章にして打ち込むのとでは、私にとってずいぶん重みが違ってました。

私の幼いころ、東京の大きな駅、たぶん新宿や渋谷、新橋のどこか

戦争の?茶色い服と帽子を被った人が、看板を持って頭を下げていたのを覚えています。その人には腕がなかったような・・・幼心に見てはいけないものを見た気がしました。

その時のうしろめたさが心のどこかに残っています。

今、親の体験を聴かないで過ごすしてしまったら、それに似た後悔をしそうな気がします。

戦争体験あるいは戦争の記憶のある親を持つ私たちは、まだ戦争の体験談に関心のない若い子どもたちに、生に近い声を伝えられるように、記録しておく義務があるように思っています。

 

総務省|一般戦災死没者の追悼|渋谷区における戦災の状況(東京都).

 

[学童疎開って何?]全国疎開学童連絡協議会 公式ホームページ 〜子どもたちの戦争体験〜.